第53話   庄内藩士の竿   平成15年10月27日  

縄文の昔から釣は行われて来たが、其れは生きんがために行われてきたもので游魚としての類ものではなかった。生活が安定し、人間に余暇という物が生じてきて始めて游魚としての釣が行われた。

江戸時代の元禄の頃になると華やかな町人文化が芽生え、人々が太平の世を謳歌し始めた頃から游魚としての釣が広まっていたらしい。この頃はまだお金持ちの一部の町人や高級武士の一部だけの釣であったが、将軍綱吉の時代生類哀れみの令の為に釣りをして伝馬町の牢に繋がれた者も居たという記録が残っているから面白い。当時の法令は今と違い相当厳しく漁師が魚を捕れなくなったと云う程であったから、其れを犯してまで釣りに熱中した者が居た事は、余程の釣り馬鹿であったに相違いない。綱吉が死ぬと同時に生類哀れみの令は廃止され、江戸の一部の者達の娯楽としての游魚が復活した。釣りは参勤交代などを通じて江戸から地方へと伝わった。以前釣の関係の本だったと思うが、参勤交代の慰労をかねて家中の者を釣りに連れて行ったという文献を見た事がある。

そんな中、庄内藩では藩侯の奨励で盛んに釣(生類哀れみの令で有名な綱吉が死んでまもなくの1716年に加茂磯に釣に藩士が行ったと云う文献)が行われていた。庄内藩の釣りは城下町から磯までかなりの距離があり游魚ではあるが、身体を鍛えるための釣りとしてとらえ武芸の一端として「釣芸」とされていた。武芸の一端としての釣であるから、明け番の武士たちは大平に大手を振って釣に行く事が出来たのである。

いくら武芸としての釣とはいえ、釣に行けば数も釣りたくなったろうし、大きいのも釣りたくなったのも当然である。釣り魚の対象が主として日本海の荒海で育った黒鯛を対象にした釣であったから釣具の工夫、ことに釣竿には各自工夫を凝らした。まったくの素人が作る竿であったから竿の穂先の継ぎ方が稚拙だったり、竿の削りや矯めは粗いものであったのは当然である。しかし、基本的に自分の竿は自分で作るのであるから、多少の傷などは気にせずより実践的な竿作りが行われていた。其の当時の竿が鶴岡の致道博物館に何本か残っている。

幕末も近い頃に藩士陶山槁木の弟で陶山運平なる者が、今の庄内竿の原型となる竿を完成させた。其れは実践にも使え、更に優美で鑑賞にも耐えるという竿であった。それまでの釣れれば良いと云う釣から、釣具にも凝った物が求められるようになって来たのである。江戸においては専門の竿師がおり、継竿が主流で贅を凝らし漆を塗り、其の上に金箔を張り付けたりの蒔絵を施したりした竿も出てきた。また、対象魚により色々な竿が作られていた。

庄内では黒鯛を釣るための竿としてのより実践的な竿が作られ、しかも竹本来の素質を生かす為に延べ竿で、竹皮を削ぎ、基本的に漆を塗ったりする事は邪道とされ一切やっていない。但し、少しでも長くする為に根をそのまま使い、更に煤棚に保管し竿を布で磨きながら長年使い込んいると見事な飴色に変化して来る。其れがなんとも云えぬ美的印象をかもし出し、釣竿を鑑賞の対象にしている。殊に其の中でも名竿呼ばれる物は、代々遺言竿として世に伝えられ今でも使われているものもあると云う。

かつて「庄内竿」を発刊した酒田の釣具屋の親父亡根上吾郎氏が良く云っていた言葉に「庄内竿は手入れが肝心なんです。竿は生きているのですから。保管場所と手入れを怠らなかったら
50年でも100年でも使えるんですから・・・・。」と良く云われていたのを思い出す。事実庄内竿は100年以上の物でも手入れさえきちんとされていれば実戦で使われているものもある。